藻塩とは古代、大和朝廷の塩推之神により作られた塩で、古事記や日本書紀に記載されている神武天皇から仁徳天皇の時代付近まで使用されました。
伝説によると、この時代の天皇は身長2m以上、寿命が優に100歳を超えることができたと言われております。しかし、この藻塩は製造法が複雑なため神功皇后による三韓出兵の後、大陸から伝わった簡単で効率のよい揚浜式塩田法が普及する事により生産されなくなります。
揚浜式塩田法で作られた塩は「にがり」を多く含み過ぎたため、(それまで100歳を優に越えていた)当時の人々の寿命が内臓を痛める事により(特に漢方で言う腎を痛める事により)50歳ぐらいになってしまい、体格も身長150cm位になってしまったと言われています。(白人は岩塩を使用し、また肉を常食していたため、「にがり」の害を受けにくかったと考えられています。)
その後の豊臣秀吉の朝鮮出兵後に入ってきた入浜式塩田法による塩も同じように、「にがり」成分を多く含み過ぎていました。
藻塩は、この「にがり」の害なく(適度な「にがり」を含む)海藻のミネラル・海水酵素・活性炭を含み毒消し作用のあるアルカリ食品です。
一方で、今日の食卓塩は限りなく薬品に近い塩化ナトリウムで、これは高血圧や各種慢性病・ガンなどの原因と言われています。
旧専売公社に勤めていた故西本友康氏は、世界に誇る良塩を作る事が出来た流下式枝条架塩田の創始者であり、日本で初めて塩に含まれる「にがり」やミネラルそして酵素の重要性を説いた方です。
また、西本氏は古代史に関しても大変詳しい研究者でした。
日本古来の海藻から作る藻塩の有用性を初めて解き明かし、宮城県塩釜神社の藻塩焼きの神事(海藻のホンダワラに海水を注いで乾燥させる作業を繰り返し、かん水(濃い塩水)を採りこれを煮詰めて塩を作る)や古代史の研究の末、藻塩の復元も行いました。(ホンダワラ類〔藻塩草〕を刈り、再三海水をかけて乾燥し、塩分の付着した乾いた海藻を焼いて灰塩を作り、さらにろ過して、かん水をつくりこれを土器で濃縮する方法。)
昭和47年の天然塩廃止の時には、昭和44年に日本CI協会(桜沢如一氏創始)を通じて出会った故・菅本フジ子さん(日本自然塩普及会 永世会長)を支え、自然塩存続のため大論陣を展開し全国運動の先頭に立ちミネラルや海の酵素を含む自然塩の重要性を説きました。(自然塩存続運動)
近年起こった「にがりブーム」の予言も行っており、また国立健康・栄養研究所が出した「にがり」の取り過ぎの害までも昭和30年代に警告していました。
明治43年香川県宇多津町生まれ。
昭和の始め、学業を終えると同時に家業の製塩業をつぐ。ほどなく、専売公社に入り製塩技術の研究改良、指導にあたる。
昭和12年、当時、朝鮮総督府の水産局長だった叔父をたよって渡鮮、仁川塩田を視察。帰国後、流下式塩田の基礎を考案。昭和17年、当時の仙台地方専売局長、神出憲太郎氏の援助で塩釜様の地元、東名塩業(宮城県)で全国最初の流下式塩田を築造。昭和27年ごろ、香川県にて流下式枝条架塩田の実用化に成功。以後さらに研究を重ね、「にがり」や海の複合栄養素を含まないミネラル・バランスのくずれた塩の使用によりガンや肥満症、成人病などが増えることを主張(「塩業時報」、塩業組合中央会発行、昭和38年から昭和43年発行分)、自然塩存続運動に心血をそそぐ。
単に塩の研究のみにどどまらず、海水中の有用物質や酵素を多数開発。
昭和45年ごろ海水中の医療物質抽出なども行い、また昭和48年に誕生した「伯方の塩」の生みの親でもある。古代史や宗教哲学にも造詣が深く、昭和14年、日本上代の藻塩を発見。
宮城県の塩釜神社に伝わる藻塩焼きの神事(ホンダワラに海水を注いでは乾燥させる作業を繰り返し作り、かん水を採り濃縮して塩を作る)を研究し、さらに古代の文献を分析、戦後まもなく藻塩の復元にも成功している。
昭和55年1月20日ご逝去。
(昭和47年日本自然塩普及会発行 西本友康著 食用最適塩考参照)
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