日本の塩づくりの歴史

地域によって違いが見られ、一概にこの通りとはいえませんが、下記のようになります。

古代

海藻を利用する「藻塩焼き」とよばれる方法でしたが、やがて砂を利用して濃い塩水(かん水)を採取して煮つめる方法に移行しました。
初めは海浜の自然のままの砂面で採かんを行う「自然浜」で、8世紀ごろにはこの方法による相当な規模の塩産地が存在したことが知られています。

鎌倉時代末期

次第に採かん地に溝、あぜ道等がつくられ、「塩浜」の形態が整ってきました。
塩浜は原料海水の補給方式によって「入浜」と「揚浜」とに分けられ、能登半島など砂浜がないところでは揚浜の一種である「塗浜」とよばれる塩浜も発達しています。せんごう工程には、あじろ釜、土釜、石釜、などが使用されました。

江戸時代初期

気候、地形等の立地条件に恵まれた瀬戸内海沿岸を中心に開発された「入浜式塩田」が普及発達し、いわゆる「十洲塩田」(製塩の中心地が瀬戸内海周辺の10ヶ国だったためこう呼ばれた)が成立しました。
入浜式塩田と塩釜、平釜(鉄釜)によって構成されたこの方法は、約400年間続き昭和30年ごろまで変わりなく盛んに行われました。
※十州塩田の10ヶ国とは…阿波・讃岐・伊予・長門・周防・安芸・備後・備中・備前・播磨(現在の徳島、香川、愛媛、山口、広島、岡山、兵庫)

昭和のはじめ

平釜に替わって蒸気利用式釜、真空式蒸発缶が導入され、せんごう工程に革命がおこりました。

昭和28年ごろ

採かん工程も「流下式塩田」が登場し長年つづいた入浜式塩田にとって変わり、生産量は大幅に増加し、労力は10分の1になりました。

昭和47年4月以降

従来の水分を蒸発・除去する方法から、海水中の塩分を集める方法の「イオン交換膜法」が導入され、全面的にこの方式に切り換えられました。

平成9年4月

1905年に施行されて以来92年間続いた塩専売法が廃止され、新たに塩事業法が施行されました。
塩製造業者が増え、いろいろな方法で塩づくりが行われています。

流下式枝条架塩田

近代塩業の年表

ここでは、塩専売法の歴史を記載します。

明治38年(1905年)

日露戦争の戦費調達など財政寄与の目的で、塩収益専売法公布される。

大正7年(1918年)

12月、貴族院予算委員会で高橋是清蔵相、塩専売を公益専売として維持することを言明。

大正8年(1919年)

民生安定のため塩公益専売法に変わる。

昭和17年(1942年)

太平洋戦争の勃発(1941年)の影響で、自家用塩(のちの自給製塩制度)の製塩許可がされる。

昭和19年(1944年)

にがりの専売制が実施される。

昭和21年(1946年)

戦争終結により外国塩の輸入が再開される。

昭和23年(1948年)

日本専売公社法が公布され、翌昭和24年に公社が発足する。

昭和24年(1949年)

塩専売法の全面的改正により自給製塩制度が廃止される。

昭和29年(1954年)

にがりの専売制度が廃止される。

昭和33年(1958年)

イオン交換膜製塩方法の企業化試験を経て、中間工業化の段階となる。

昭和46年(1971年)

塩業近代化臨時措置法成立。翌、昭和47年から日本国内の塩田製塩(自然塩)は全廃され、イオン交換膜法製塩となる。

昭和46年(1971年)

塩業近代化臨時措置法成立。翌、昭和47年から日本国内の塩田製塩(自然塩)は全廃され、イオン交換膜法製塩となる。

塩業近代化臨時措置法の成立前後から愛媛県松山市で流下式塩田(自然塩)存続運動がスタート。塩と健康について重大関心をもつ学者、有識者の講演会開催。第22回日本統合医学会大会(京都府中心山荘)での自然塩存続決議。さらに全国5万人の署名を集めて、強力な陳情運動を展開する。

昭和47年(1972年)

専売公社より、にがりを含む再生塩を作ってよいとの口約を得る。この問題は国会の場でも取り上げられる。会社設立発起人会、自然塩生産販売計画の策定を行い、同年末に申請書提出にこぎつける。

昭和48年(1973年)

専売公社より、伯方塩業株式会社に対し「伯方の塩」の生産販売の委託認可が行われた。日本の自然塩の本(源)流。

昭和60年(1985年)

4月1日より、専売公社は、日本たばこ産業株式会社に民営化。塩の専売制度は維持される。

平成9年(1997年)

1905年に施行されて以来92年間続いた塩専売法が廃止され、新たに塩事業法が施行される。塩製造業者が増え、いろいろな方法で自然塩など塩づくりが行われるようになる。